大阪高等裁判所 昭和44年(う)1258号 判決 1970年2月26日
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、大阪高等検察庁検察官片岡平太提出の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人宮原守男作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。
論旨は、要するに、原判決は、本件公訴事実に対し、過失の点を除く外形的事実は、すべてこれを肯認したうえ、「被告人は、運転車両がローリングしたので、そのまま運転を継続することの危険を感じ、安全な場所に停車して点検するため、先ず安全速度まで減速すべく、徐々にブレーキを踏んで減速したというのであり、このような高速度(時速六五キロメートルと認定している)でローリングする状態のもとに急制動したり、直ちにハンドルを切ったりすることは、さらに危険を招くおそれがあること経験上認められるところであるから、右被告人の措置は通常運転者としてとるべき妥当な措置であったと認められる。科学警察研究所実測によると、乗用車のトップ時エンジンブレーキのみによって減速する場合、走行中の速度六〇キロメートルから時速二〇キロメートルに減速するのに二〇七メートルを要するとされているから、時速六五キロメートルでは約二三〇メートルを要することとなり、本件の場合下り勾配でしかも荷物を積載したローリングする大型貸物自動車であることを勘案すると安全速度の時速約二〇キロメートルに減速するのに一七九メートルを要したとしても不当とはいえない。そうすると、被告人が一時、同一進路上を最低制限速度以下で車両を運転したとしても、被告人としては危険を防止するためやむを得なかったものといわなければならない。また、被告人が前記速度から徐々にブレーキを踏んで減速する場合にことさら後続車両を確認しつつしなければならない注意義務があるものとは解せられない。(その他右減速の場合、いまだ永井武司の車両が後方に接近してくる状況のなかった事実を認定し、かつ永井における先行車の動静観察と車間距離保持の義務のあることを説示したうえ)してみると、被告人において忽ち後方からの追突を予測して運転しなければならないような事情はなかったものというべく、またローリングして危険を感じていた被告人に対し、幅二・四九メートルの車両を直ちに路肩部分(左側部分は走行車線の路面より一段低くなっている)に寄せる注意義務を課することはできない」との理由により結局「被告人が同一進路のまま約一七九メートルを走行して安全速度に減速したとしても、これをもって直ちに本件事故発生の原因をなす被告人の過失ということはできない」として無罪を言い渡した。しかしながら、原判決が本件被告人の減速措置につき、被告人が徐々にブレーキを踏んで減速した事実を認定しながら、右の如くエンジンブレーキのみによる減速の場合の必要距離を援用し、前記一七九メートルと対比したのはまことに不正確であり、本件においては、フートブレーキによる減速措置の場合における時速六五キロメートルから二〇キロメートルまでの減速にあたり、一般的に必要とされる走行距離を基準として、前記約一七九メートルの相当性を判断しなければならない。この点、原判示引用資料中の「乗客に不快感を与えない程度にブレーキ操作をした場合(乗用車のトップ時)」の項の数値にもとずき計算すれば、五二メートルということになり、右一七九米の約三分の一で足りるということになる。本件現場付近は、最高制限速度時速八〇キロメートル、最低制限速度時速五〇キロメートルと指定された場所であって、かかる高速道路の特殊性から、走行中自車に異状を認めた運転者は、後続車両に対する危険防止のため、直ちに減速のうえ安全速度で速かに自車を走行車線から路肩へ避譲停止させ、しかる後に、故障個所の点検修理等につとめるべきであって急制動や急激な転把が一層の危険を招来するおそれがあるからといって、自車の異状により走行車線上での正常な運転が不可能となった以上、いたずらに減速措置を遅疑逡巡すべきではなく、また低速のまま不必要な同一進路上の走行を避けなければならない注意義務があることは極めて明白であり、しかも本件の場合、減速措置に伴う適宜の転把により、自車を速かに道路左路肩に寄せて停車させることも可能であったのである。要するに、時速六五キロメートルから時速二〇キロメートルに減速するには、約五二メートルの距離でこと足りるのに、約一七九メートルを要したのは、道路状況(カーブや勾配の点)や積荷の点を加味しても、被告人の減速措置が不適切であったか、もしくは時速二〇キロメートルに減速してから同一進路上を必要以上に走行したかのいずれかであって、いずれにしても被告人に前記注意義務違反があったものというべきである。また原判決は、被告人が車両のローリングに気づいてから、減速措置を講ずるまでの約一〇〇メートル、時間にして約五・五秒の間、なんらの措置をもとることなく進行している点について判断を示していないが、右減速措置の遅滞は、結局、安全速度への減速、道路左路肩への避譲を遅延せしめたものとして、この点にも被告人の過失が肯認されるべきである。さらに、原審の検証調書添付写真によれば、左側路肩部は走行車線の路面からわずかに傾斜しているにすぎないのに、原判決の「走行車線の路面より一段低くなっている」との判示は事実に反しており、したがって右の左側路肩部分の傾斜をもって、被告人に自車を左側路肩に寄せる注意義務を課し得ない理由としているのは首肯することができない。なお、原判決は、被害者永井武司において前方注視義務違反、車間距離保持義務違反の過失の存することから「被告人において忽ち後方からの追突の危険を予測して、運転しなければならないような事情はなかったもの」と説示し、右の事情をもって被告人に対し自車を道路左側路肩に寄せる注意義務を課し得ない理由としているようにもうかがえるが、もしそのような趣旨であるとすれば右の判旨は明らかに不当であって、被害者側の右過失が被告人の注意義務、ひいては刑事責任を免除するものでないことはいうまでもない。被告人は捜査官に対して明らかに本件に関する自己の過失責任を認めていたのであり、これと他の客観的証拠とを総合すれば、優に被告人の過失を認定しうるにもかかわらず、原判決が被告人の過失を認めがたいとしたのは、重大な事実誤認であり、その誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるので、破棄を免れないというのである。
そこで検討するのに、≪証拠省略≫を総合すれば、本件事案は次のようなものであることが認められる。
(一) 被告人は昭和四一年六月八日午前六時四〇分ごろ、大型貨物自動車(長さ八・二五メートル、幅二・四九メートル、最大積載量八トン)にセメント約八・八トンを積載して運転し、京都市東山区山科小山西御所町の名神高速道路下り走行車線を時速約六五キロメートルで進行中、同車線の五八・五キロポスト付近にさしかかったさい、突然自車がローリング(横揺れ)しはじめたので、前輪タイヤがパンクしたか、或いは車輪が脱落する兆候ではないかと考えて危険を感じ、停車して点検すべく、五八・四キロポスト付近から減速にかかり、トップギヤーのまま、徐々にブレーキを踏んで速度を減じ(当然アクセルペタルから足をはなしているから、同時にエンジンブレーキを併用した状態になっている)、同時に車体後尾の制動灯はフートブレーキに連動して作動するところから制動灯をもって後続車に注意を喚起し、かつ、その後半においては方向指示器を操作して進路を左方に移す合図をも行ないながら、約一七九メートル進行したところ(五八・二キロポストの手前約二一メートルの地点において)、速度も時速二〇キロメートル程度に減じ、一応安全速度となったので、左に寄って停車しようと思ったさい、後方から永井武司(当時二五才)運転の普通貨物自動車が追突し、そのため右永井及び同車助手席に同乗中の丸山隆之(当二〇才)が、公訴事実記載のとおりの各傷害を受け、永井は該傷害にもとずき死亡するにいたった。
(二)、右ローリングの原因は、前輪タイヤの内側に約三〇センチメートル平方のキャンバスをあててあったためであるが、これは外見上発見し得ないものであり、かつ被告人は本件車両を臨時に運転したものであったから、本件車両が高速度になるとローリングするという事実を全く知らなかった。
(三)、本件事故現場付近道路は、名神高速道路下り線(大津方面より大阪方面に向う)の京都東インターチェンジへの流出ラランプウェー分岐点と同インターチェンジからの流入ランプウェー合流点との間にあって、右方から、追越車線、走行車線(巾員はいずれも三・六メートル)及び路肩(巾員二・五メートル、その左半分は走行車線の路面よりわずかに低くなっており、その境目は斜めに軽い段落ちの形状をなし、その外側にはガードレールが設けられている)の順になっており、また付近は、右流出ランプウェー分岐点手前付近を始点とする、半径約七〇〇メートルのゆるやかな左カーブをなし、また一・〇〇〇メートルに対して三・四九メートルの下り勾配で、最高速度は時速八〇キロメートルに指定されている(最低速度は、道路交通法施行令二七条の四により時速五〇キロメートルと定められている)。なお前記カーブ地点においても、前方に対する見とおしは良好であるが、ただ本件事故現場の少し手前の車線左方に植込みがなされているため、部分的には、見とおしが二〇〇メートル前後に落ちる箇所もある。
ところで高速道路において、高速走行中の自動車が、故障その他車両の異状により、正常な運転が不可能となった場合、その運転者としては、自他の安全を確保するため、先ず車両を安全にかつ速かに停止させることを心掛けるべきであって、この点は一般道路の場合となんら異なるものではない。しかも、右の場合、高速道路の特殊性、ことに交通の円滑を確保し、或いは後続車の追突などの事故発生を防止する見地から、できるだけ、速かに走行車線から路肩部分へ避譲するなど、走行車線を走行する他車に危険を与えることがないように措置すべき義務のあることも論をまたない。しかし、事柄の性質上、右措置をとるべき要請もそれが可能であることを前提とすることはいうまでもなく、したがって本件の場合、被告人が右義務をつくしたかどうかの判断をするについては、被告人の直面した当時の状況からして、それが可能であったかどうかの点が当然に考慮されなければならない。すなわち、異状の個所や、その程度によっては、極端な場合、ブレーキやハンドルの操作さえ危険な場合も考えられるし、その程度にいたらないまでも、右操作を非常に慎重に行なわなければならない場合のあることは容易に考えられる。本件において被告人の車のローリングは前示のとおりダイヤにキャンバスのあてものが施されてあったことがその原因であったに過ぎず、時速六〇キロメートル以下で運転しておればローリングはなくなるし、走行にも差支えなかったことが判明したのであるが、これはあくまで事後の調査の結果明らかになったことであり、被告人としては、当時右事実を知る由もなく、車を運転していて、ハンドルや前輪のぶれ具合から、このローリングは前輪のパンクによるものが、或いは車輪の脱落の前兆ではなかろうかと危惧し、これに対処し、できるだけ静かに車を停めることに意を用い、そのため前示の如き、いわば緩漫とも見える制動操作をしたものと認められるのである(本件において被告人の右判断が不合理であると断定するに足りる資料はない)。そうすると、被告人が制動操作を開始してから一七九メートルを走行してようやく安全速度と目すべき時速二〇キロメートルに減速し得た点をとらえ、しかも乗用車における「乗客に不快感を与えない程度にブレーキ操作をした場合」、すなわち、車両になんらの異状のない場合に採り得る通常の制動のときの数値(昭和四一年六月警視庁交通部編集、「酒酔い、最高速度徐行違反取締りの手引」第三章徐行違反三四頁所載のもの)と比較して、所論の如く、被告人の減速措置が不適切か、もしくは時速二〇キロメートルに減速してからの不必要な同一進路上の走行があったとみることは少なくとも合理的な論拠にもとずかない非難であって、相当ではないと考えられる。ことに本件は、約八・八トンの貨物を積載した大型貨物自動車が、その程度は僅かにしろ、下り勾配の、しかも左カーブになった道路を進行する状態であるので、なおさら所論の数値は比較にならない。なお、所論は、エンジンブレーキの作用で時速五〇キロメートルまで減速し、しかる後に「乗客に不快感を与えない程度にブレーキ操作」をした場合を想定し、前記資料にもとずき、乗用車が時速六五キロメートルから時速二〇キロメートルに減速するに要する距離を一〇九・六メートルと計算し、これと比較しても被告人の右制動操作は適切でなかったなどと主張するが、この主張は前記当裁判所の見解を左右するものでないうえに被告人が車両に異状を感じた地点及び制動操作を開始した地点は、本件事件発生後、六ヶ月以上も経過した昭和四一年一二月二〇日にいたってはじめて質問を受け、パトカーに同乗し、走行したときの感じに基づいて被告人が指示説明したことによって定められたものであって、その特定の経過から考えても、精密な計算による数値との比較に耐えうるほど正確なものとは考えられず、要するに所論の数値を根拠として、被告人の示前措置を非難する前記論旨に賛成することはできない。そして被告人は、安全速度である時速二〇キロメートル程度に減速することができたので、進路を左方に移そうとした矢先に、永井武司運転の普通貨物自動車に追突されたものであるところ、前示の如く、走行装置に重大な欠陥の発生を危惧している被告人に対し、安全速度に至るまでに、路肩に乗り入れるための転把を要求することは、積荷や道路などの前記諸条件をも加味すれば、自車に危険を招くおそれのある措置を強いるものといわなければならず、一方既に制動灯により、後続車に対し減速或は停止を予告していることでもあり、後続車の前方注視及び車間距離保持の励行により追突等の事故発生の防止は十分可能であったわけであるから、右の如き危険を感じている被告人に対し、安全速度に至るまでに路肩に乗り入れるための転把を要求すべきものとは考えられない。そしてまた被告人が右安全速度まで減速しながら、なお自車の進路を左方に移すことなく、不必要に走行車線を進行したものと認めることは、少なくとも本件については相当な事実判断であるとはいえない。所論は、被告人が車両のローリングに気付いてから、減速措置を講ずるまでの約一〇〇メートルの間(時間にして約五・五秒間)を全くなんらの措置をもとることなく進行した点に過失がある如く主張しているが、≪証拠省略≫を総合するのに、この間に、被告人はローリング現象の原因について思案し、かつ同乗中のその車両の受持運転手である右宮部に「ハンドルがローリングする、車輪でもとぶと大変だから止まれるところで止まろう」と言ってその意見をきき、同人も同意見であったので、制動を開始したことが認められ、所論のようにいたずらになすところなく漫然と運転を継続していたわけではなく、しかもその間は、最低制限速度を上廻る時速六〇ないし六五キロメートルの速度を維持して走行していたものであるから、所論の時点における注意義務違反もなく、右の点に過失があるとの所論は採用することができない。さらに、所論は、(1)、原判決が本件現場の道路左側路肩の左側部分が走行車線の路面より一段低くなっていると判示しているのが事実に反し、したがって路肩部分の傾斜をもって、被告人に自車を路肩に寄せる注意義務を課し得ない理由とすることはできない、(2)、原判決は、被害者永井武司において、前方注視義務違反、車間距離保持義務違反の過失の存することから「被告人において忽ち後方からの追突の危険を予測して、運転しなければならないような事情はなかった」と説示し、右の事情をもって、被告人に対し自車を道路左側路肩に寄せる注意義務を課し得ないとしているようにも窺えるが不当であるなどと主張するが、これらは原判決の説示を正解しないでこれを非難するものといわなければならない。すなわち、道路左側部分路肩の状況は、既に示したとおりであって、原判示はその表現がやや簡略に失するきらいがあるが、事実に反するものではなく、しかもその一事をもって、路肩に寄せる義務がないと判示しているものでないことは多言を要しない(原判示は、ローリングして危険を感じていた本件被告人の場合、いまだ安全速度にまで減速できていない積荷満載の大型貨物自動車を直ちに路肩部分に乗り入れるべきであるとすることはむしろかたきを強いるものであるとの趣旨を説示する過程において、右路肩の状況を註記したに過ぎない。)また原判決は、所論の如く後続車に前方注視及び車間距離保持の義務があるから、被告人に対し自車を道路左側路肩に寄せる義務がないと判示しているのではなく、本件の如く徐々にブレーキを踏む場合は、制動灯で警告している事情もあり、追突のおそれもないから、ことさら後続車の有無を確認しなければならないものではないこと、しかも被告人が減速を開始したときの後続車は後藤昌男運転の自動車であって、永井の車はさらにその後方にあり、したがって永井の車との関係においては、後方確認はなんら意味がないこと、そして永井の車においては先行車の動静を注視しつつ適宜速度を調節して必要な車間距離を保持するのに困難はなく、まして右側追越車線を利用して進行することにより、本件追突事故を回避することは極めて容易な状況にあり、したがって本件の場合、安全速度に減速するまでの間、走行車線を進行した被告人の措置を過失ありとすることはできないことを順次説示したに過ぎないから、原判決の右説示はいずれも正当である。
以上述べたように、本件においては、被告人における自動車運転上の過失は認められないから(被告人の捜査官に対する供述調書中に、所論の如き、自己の過失を自認する旨の記載があるが、右は捜査官が車両の異状の点を考慮せず、最低速度違反など一般的、形式的な注意義務を示して、これに対する被告人の反省を記述したものに過ぎず、かつ右注意義務の内容は、当裁判所の見解として既に示したところと相違する点もかなりあるので、被告人の過失の有無を判断するにあたって直ちにこれを採用するに足りる資料とはいえない。)結局犯罪の証明がないこととなり、これと同旨の原判決は正当であって、所論の如き事実誤認はなく、論旨は理由がない。
よって刑訴法三九六条により、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 三木良雄 裁判官 西川潔 金山丈一)